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富之森祐右衛門正固(『誠忠 義士肖像』より、歌川国芳 画)

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富之森祐右衛門正固(『誠忠 義士肖像』より、歌川国芳 画)

富森助右衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。助右衛門は通称で、名は正因(まさより)。俳諧をたしなむ文化人で、松尾芭蕉の高弟・宝井其角(きかく)に師事し、自身も「春帆」の号を持つ。赤穂藩御留守居役の子として生まれ、父を早くに亡くしたため幼い頃から赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩からの信頼もあつかった。非常に母親孝行な人物として知られ、母から「いついかなる御用をおおせつかってもいいように20両くらいは持っておきなさい」という言いつけを守り、懐には常に20両をひそませていたという。また、討ち入り時には母の小袖を身につけ戦いに挑んだ。大石内蔵助からの信頼もあつかった助右衛門は、討ち入り後、吉田忠左衛門とともに幕府の大目付・仙石伯耆守の屋敷へ討ち入りを報告する大任をまかされた。その後は大石らと同じく熊本藩・細川家屋敷にお預かりとなり、老母の行く末を遺言して切腹。辞世の句は「先立ちし人もありけり今日の日をついの旅路の思ひ出にして」。なお、助右衛門は細川家にお預けになっている間に、細川家屋敷にお預けになっている17人の義士が切腹したあとは主君・長矩が葬られている泉岳寺に全員一緒に埋めてほしい、と願い出たという。これがかなえられ、赤穂浪士のうち切腹した46人は全員が泉岳寺に眠る。助右衛門の長男(事件当時は2歳)はのち下野国壬生藩に仕官した。

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