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平賀源内の肖像画(『戯作者考補遺』表紙絵より)

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平賀源内の肖像画(『戯作者考補遺』表紙絵より)

平賀源内
江戸時代中期に活躍した本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。よく知られる「源内」は通称で、「元内」とも書いた。戯作者としての筆名は「風来山人(ふうらいさんじん)」、浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうちきがい)」を、また事業家としては「天竺浪人(てんじくろうにん)」などを名乗った。讃岐国寒川郡にある讃岐高松藩の足軽身分の家に生まれる。幼い頃から才気煥発で、子どもの時に掛け軸に細工をし天神さまの顔が赤くなる「お神酒天神」を作ったのは有名。最初は藩医のもとで本草学、儒学を学び、その後、長崎へ遊学しオランダ語や医学、油絵などを学び、さらに大坂、京、江戸でも諸学を学んだ。1762年に江戸の湯島で開催した「東都薬品会」をはじめとする物産博覧会をたびたび開催、その名は時の老中・田沼意次にも知られるまでになり、『解体新書』の翻訳で知られる蘭学者・杉田玄白らとも親交を結んだ。マルチな才能を持つ源内は、本草学者として活躍したほか、長崎で入手したエレキテル(静電気発生機)を修復し人々を驚かせたり、鉱山開発などにも携わったり、戯作者として文芸活動を行ったり、「源内焼」というオリジナルの焼き物を作成したり、秋田藩士・小田野直武に蘭画の技法を伝授したりと多岐にわたる活躍をみせた。また、日本におけるコピーライターのはしりとも言われ、夏場の売り上げ不振に悩んでいた鰻屋の依頼で「本日土用丑の日」というキャッチコピーを源内がつくり、これにより「土用の丑の日に鰻を食べる」という風習ができた、とも。天才、鬼才と評された源内だったが、1779年、大名屋敷の修理を請け負った際、泥酔の末に誤って大工2人を殺傷、これにより投獄され、破傷風により獄中で他界するという悲惨な最期を迎えた(晩年については諸説あり)。墓所は東京の台東区にある総泉寺。

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