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『化粧回し姿 雷電為右衛門』(画・勝川春亭)

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『化粧回し姿 雷電為右衛門』(画・勝川春亭)

雷電爲右エ門
江戸時代後期に活躍した超人的大相撲力士。現役生活21年のなかで黒星はわずか10、勝率9割6分2厘という驚異的な記録を残し、「大相撲史上最強の力士」と称される。身長は197cm、体重172kgと破格の体格の持ち主だった。本名は関太郎吉、幼名は太郎吉または樽吉、愛称は古今十傑。信濃国小県郡大石村(現・長野県東御市)の豪農・関家にて生まれる。子どもの頃から巨漢で怪力無双だったといわれ、さまざまな伝説が残る。やがて相撲の道に進み、江戸へ出て大横綱・谷風梶之助に弟子入り、その後、松江藩主・松平治郷のお抱え力士となった。初土俵を踏んだのは23歳の時で、8勝2預の好成績を残し横綱・小野川喜三郎と熱戦を繰り広げるなどその強さを見せた。以降、向かうところ敵なしの無類の強さを発揮し観客を熱狂させた。雷電のあまりの強さに「突っ張り」「張り手」「閂」「鯖折り」が禁じ手にされたというのは有名(真偽は不明)。44歳で現役を引退、晩年は妻の故郷である下総国臼井(現・千葉県佐倉市)にて悠々自適に過ごした。墓所は東京都赤坂にある報土寺のほか、生地の長野県東御市の関家墓地、晩年を過ごした千葉県佐倉市にある浄行寺、島根県松江市の西光寺にも雷電の墓といわれるものがある。また、東京都墨田区にある相撲博物館や報土寺などに雷電の手形が残されており、長さ23.3cm、幅13cmと非常に大きい。雷電が無類の強さを誇りながらも横綱になれなかったことは雷電最大の謎といわれるが、その理由については、「推薦を辞退した」「横綱制度そのものがまだ確立していなかった」など諸説ある。なお、現在、雷電の子孫を名乗る関家が長野県東御市と島根県松江市に1軒ずつある。

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