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堀部安兵衛の肖像画(左は義父・堀部金丸)

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堀部安兵衛の肖像画(左は義父・堀部金丸)

堀部安兵衛
江戸時代前期の武士。「堀部武庸(ほりべたけつね)」と読む。通称は堀部安兵衛。『忠臣蔵』で知られる「元禄赤穂事件」で吉良上野介義央の邸に討ち入りした赤穂浪士四十七士のひとり。浪士随一の剣客で、「高田馬場の決闘」でその名を知らしめた。父は越後国新発田藩の溝口家家臣・中山弥次右衛門。誕生直後に母が死去、男手ひとつで育ててくれた父も13歳の時に死去し孤児となった。その後、江戸へ出て堀内正春道場に入門、すぐに頭角を現した。1694年3月6日、同門の菅野六郎左衛門が高田馬場で果し合いをすることとなり、安兵衛はこれに助太刀、めざましい活躍を見せ、その名は江戸中に知られるほどとなった。堀部の勇名を聞いた赤穂浅野家家臣・堀部金丸の願いにより、安兵衛は堀部家に婿養子として入り、浅野家家臣となった。「元禄赤穂事件」においては江戸急進派のリーダー格として、筆頭家老・大石良雄に何度も吉良への敵討ちを主張し続けた。そして1703年1月31日、吉良を討ち取り宿願を果たした安兵衛は、大石良雄の嫡男・大石主税らとともに伊予松山藩主・松平定直の江戸邸へ預けられ、同年3月20日、幕命により切腹した。墓所は主君・浅野長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺。なお、安兵衛が討ち入りに関する重要事項をまとめた『堀部武庸日記』は元禄赤穂事件研究の重要な資料となっている。

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