天秀尼の肖像画(東慶寺 所蔵)
天秀尼
江戸時代前期の女性で、東慶寺20世住持。父は豊臣秀頼、家康の孫で秀頼の正室である千姫は養母。俗名は不明。生母も不明。大坂城落城以前の天秀尼については記録がない。1615年(慶長20)に大坂城が落城し、豊臣秀頼とその母・淀殿は自害、豊臣家は滅んだ。秀頼の息子は斬首となったが、まだ7歳の少女だった天秀尼は女であることから死罪を免れ、千姫の養女となると家康の命で東慶寺に預けられた。東慶寺は「縁切寺」「駆込寺」とも呼ばれた特殊な寺で、ここに離婚したい女性が駆け込み3年の修行を積めば夫と縁を切ることができた。天秀尼は禅の修業に励み、20世住持となり、千姫や3代将軍・家光の援助を受けながら寺の増改築を行うとともに、離婚を望む多くの女性たちを救済した。天秀尼といえば忘れてはならないのが「会津騒動」ともいわれる会津若松藩主・加藤明成の改易事件だ。1639年(寛永16)、会津若松藩主・加藤明成の非を幕府に訴えるため家臣・堀主水が妻や家臣と出奔したが追っ手が差し向けられ、堀主水は高野山へ、妻は東慶寺へ逃げ込んだ。高野山は明成の要求を受け主水を引き渡したが(主水はその後斬殺)、東慶寺の天秀尼は明成からの強硬な引渡し要求を拒否し、主水の妻を守ったという。さらに養母・千姫を通じて三代将軍・家光に明成の非を訴えたという逸話がある。結果的に明成は会津40万石を幕府に返上するはめになった。この会津加藤家改易から2年後、天秀尼は37歳で他界した。天秀尼の墓は歴代住持で最も大きなものである。側にある墓は天秀尼の世話をしていた女性のものと思われ、一説には豊臣秀吉の側室となりのちに天秀尼の世話役もしていたという甲斐姫のものともいわれるが真偽は不明。なお、天秀尼の死により秀吉の直系は断絶した。
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