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黒住宗忠の肖像画

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黒住宗忠の肖像画

黒住宗忠
江戸時代後期から幕末の神道家。神道系の新宗教のさきがけとなる「黒住教」の開祖。幼名は権吉、元服後は左之吉、神職を相続後は左京宗忠。備前国御野郡中野村にある今村宮に仕える禰宜の子として生まれ、評判の親孝行者として育った。敬愛する両親を立て続けに亡くすと、あまりの悲しみから宗忠も肺結核に倒れ生死の境をさまよう。しかし、1814年(文化11年)、冬至の朝の太陽を浴びるなか、宗忠は陽光を飲み込み天照大御神と一体となる「天命直授(てんめいじきじゅ)」といわれる霊的体験を経験し天命を悟る。奇跡的に死の淵から戻った宗忠は、「人は皆、天照大御神の御心をいただく神の子」として布教活動を開始したという。以後、宗忠は37年にわたり各地で布教を行い、多くの信者や門人を獲得した。宗忠は難病で苦しむ人たちに霊的治療を施し救済も行ったといわれる。宗忠の開いた「黒住教」は日本古来の神道の教えと太陽信仰・天照大御神信仰がアレンジされたもので、天照大御神を信仰し神への感謝の気持ちを持ち、人のため誠を尽くして生きることを説いた。宗忠の死後、皇室や公家の信者が多かったことから、神道の権威である吉田家より「宗忠大明神」の神号が授けられ、1862年(文久2)には京の神楽岡(現・京都市左京区)に「宗忠神社」が創建された。

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