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本間光丘の肖像画(贈正五位本間光丘翁書像 酒田市本間家所蔵)

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本間光丘の肖像画(贈正五位本間光丘翁書像 酒田市本間家所蔵)

本間光丘
江戸時代中期の豪商。山形県酒田市に伝わる俗謡「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」で知られる豪商・本間家の三代目。「本間三郎四郎」とも。23歳で家督を継ぎ、1758年(宝暦8)から行った酒田の西浜の防砂林事業で注目を集めるように。光丘は資材を投じてこの事業を行い、10年をかけて松の植林を完成させた。こうした功績が庄内藩から認められ、酒田町年寄格に任じられ、のち庄内藩小姓格となり、「御家中勝手向取計(ごかちゅうかってむきとりはからい)」を命ぜられ藩の財政再建を行い大いに功績をあげた。また、災害・飢饉への備えとして「備荒貯蓄の制」を整え、天明の大飢饉でも領内でひとりの餓死者を出さなかった。光丘をはじめ本間家はその後も地元の公共事業、慈善活動に尽力した。1924年(大正13)には酒田市に光丘を祀る光丘神社が建立された。

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