History Guide

晩年の大槻磐渓の写真(中央)。左は大槻如電(磐渓の次男)、右は大槻文彦(磐渓の三男)。1874年1月撮影

edo

晩年の大槻磐渓の写真(中央)。左は大槻如電(磐渓の次男)、右は大槻文彦(磐渓の三男)。1874年1月撮影

大槻磐渓
江戸時代後期から明治にかけての儒者、漢学者、文章家。父の蘭学者・大槻玄沢、子の国学者・大槻文彦とあわせ故郷の一関では「大槻三賢人」と呼ばれている。幼名は六二郎、名は清崇、盤渓は号。17歳の頃、幕府直轄の学校「昌平黌(しょうへいこう)」に入り、以後11年間ここで学問に励んだ。その後、学問修行を目的に東海、畿内、長崎を遊学、高名な学者たちと交流した。この遊学中に出会った思想家で文人の頼山陽は磐渓の漢文を見て「後来有望なり」と高く評価したという。その後、時勢もあり、西洋砲術を学ぶことを決意しこれを学び、佐久間象山が西洋式カノン砲を試し撃ちした際にはその手助けもしている。またこの頃から開国論を唱えるようになり、ペリー来航の時には藩命で浦賀へ出張し黒船を見学した。その後、仙台藩の藩校「義賢堂」の学頭となり、藩内でも大きな発言力を持つように。戊辰戦争では奥羽越列藩同名の結成に奔走し、戦後、戦犯として謹慎・幽閉された。のち許され江戸で静かに余生を送ったという。墓所は父・玄沢と同じ東京都港区にある東禅寺。著書に開国論をまとめた『献芹微衷(けんきんびちゅう)』、戦国大名の論評『近古史談』など。

このエントリーをはてなブックマークに追加