伊奈忠次の銅像(備前掘の道明橋、茨城県水戸市)
伊奈忠次
江戸時代初期の武士、大名、武蔵国小室藩初代藩主。民政家としても名高い。幼名は熊蔵、通称は半左衛門。三河国幡豆郡小島城(現・愛知県西尾市小島町)の城主・伊奈忠家の子として生まれ、家康の嫡男・信康に仕える。信康が自刃させられると一時出奔するが、本能寺の変における家康のいわゆる「伊賀越え」で功をあげ帰参が許されると家康に仕えた。また、小田原征伐では兵糧の輸送、街路整備などを一手に担い大いに貢献した。家康が江戸に移封されると忠次は関東代官頭となり、武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町)および鴻巣に1万石を与えられると関東各地の検地、新田開発、河川改修、用水路開発などを行い、関東の民政・農政に多大な功績を残した。特に利根川や荒川の付け替え工事は忠次の業績としてよく知られる。家康から「関八州を己の物のごとく大切に致すべし」と言われたとの逸話があるほど忠次はあつく信頼されていた。墓所は埼玉県鴻巣市にある勝願寺。茨城県水戸市の備前堀道明橋上には忠次の銅像がある。
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