荻原重秀の墓(長命寺、東京都台東区谷中)
荻原重秀
江戸時代中期の旗本。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下、近江守。幕府旗本・荻原種重の子として江戸に生まれ、17歳の時に勘定所の一員となった。五畿内検地で功をあげ頭角を現すと、26歳の若さで勘定組頭に昇格、その後もスピード出世を果たし勘定吟味役に就任、さらに佐渡奉行も兼任し佐渡金山の再開発を任され生産量を回復させた。数々の功績を評価され勘定所のトップである勘定奉行に就任すると、幕府の財政改革の実質的主導者となり、貨幣改鋳(元禄金銀)を指揮したほか長崎貿易の改革などを行った。5代将軍・徳川綱吉の治世下で大活躍した重秀は6代将軍・家宣にも頼りにされたが、政治顧問・新井白石から憎まれ弾劾され、ついに失脚に追い込まれた。そして、失脚の翌年、謎の死をとげた。自殺とも病死ともいわれるが真相は不明。墓所は東京都台東区にある長明寺。天敵ともいえる新井白石がその著書『折たく柴の記』で「多額の賄賂を受けていた」「その失脚を世間の人はたいへん喜んだ」など重秀を貶める記述を数多く残したこともあり、重秀に関する悪評が定着してしまった。
Originally uploaded by: 李桃桃内
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