細川綱利の肖像画(永青文庫蔵)
細川綱利
江戸時代前期の大名、肥後国熊本藩の3代藩主。通称は六丸。「赤穂事件」において吉良上野介義央を討ち取った赤穂浪士四十七士のうち、リーダーの大石内蔵助をはじめ17人の義士のお預かりを担当したことで知られる。綱利は父の死後、6歳の幼さながら異例を認められ熊本藩3代藩主となった。1703年1月30日(元禄15年12月14日)、吉良邸に討ち入りし本懐をとげた赤穂浪士たちは幕府大目付・仙石伯耆守に自主、幕府の協議の結果、細川家、水野家、松平家、毛利家にそれぞれお預けとなった。大石内蔵助をはじめ17人の義士のお預かりを命じられた綱利は、細川家下屋敷まで義士たちを丁重に連れてくることを命じると、自身は到着が深夜であったにもかかわらず義士一行が来るのを寝ずに待っていたという。そしてすぐに自ら面会すると、義挙を賞賛した。義士に感服していた綱利の厚遇ぶりはすさまじいもので、細川家家臣で義士たちの接待役を務めた堀内伝右衛門の記録によれば、部屋は預かり人のものとは思えぬ庭に面した一室、風呂はひとりずつ湯を入れ替え、食事も毎日がご馳走といったふうであったという。あまりのぜいたくさに、大石内蔵助がもうすこし簡素にしてほしいと嘆願したといわれる。また、綱利は義士の助命運動も起こし、願わくば細川家で召抱えたいという希望も幕府へ出した。しかし、幕命により義士たちは切腹。その際も綱利は重臣に介錯を担当させるなど最後まで義士たちへ心を配った。こうした細川家の義士たちへの厚遇ぶりは江戸庶民から絶賛されたという。なお、細川家下屋敷は現在、「大石良雄外十六人忠烈の跡」として東京都港区高輪に残る。
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