前野良沢の肖像画(『医家先哲肖像集』より、藤浪剛一。1936年)
前野良沢
江戸時代中期から後期の蘭学者、豊前国中津藩(現・大分県中津市)の藩医。杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳したことで知られる。「良沢」は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山のち蘭化。号の「蘭化」は中津藩主・奥平昌鹿(まさか)が良沢のオランダ語研究の熱心さを賞賛して「蘭学の化け物」と称したことにちなむ。福岡藩士・谷口新介の子として生まれたが、幼くして両親と死別、母方の大叔父で淀藩医の宮田全沢(ぜんたく)に養育された。宮田は幼い良沢に医師としての基本を教え、「廃れてしまいそうなものを後世に残すように心がけなさい」と説いたという。その後、良沢は中津藩医・前野家の養子となり中津藩医となった。やがてオランダ語に興味を持つようになり「日本人もオランダ人も同じ人間。わからないはずはない」と蘭学の勉強に励むようになる。オランダ語の基礎を「甘藷先生」のあだ名で知られる青木昆陽から学び、長崎に留学するとオランダ大通詞の吉田耕牛らに本格的にオランダ語を教わった。この留学中に良沢は西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を入手し、江戸へ持ち帰ると杉田玄白や桂川甫周らと3年5か月をかけ翻訳、ついに『解体新書』として完成させた。しかし、良沢は『解体新書』に名を載せなかった。その理由については、完璧主義の良沢にとって翻訳が満足のいくものでなかったので名を出したくなかったから、ともいわれる。生涯、オランダ語の研究に励み、語学書『蘭語随筆』や天文書『翻訳運動法』、ロシアの歴史書『魯西亜(ろしあ)本紀』など多くの翻訳書を著した。また弟子に司馬江漢や大槻玄沢などがいる。墓所は東京都杉並区梅里にある慶安寺(もとの場所は東京都台東区下谷池之端)。
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