丸目長恵の肖像画
丸目長恵
江戸時代初期の兵法家、「タイ捨流兵法」の創始者として知られる。本姓は藤原、通称は蔵人佐(くらんどのすけ)または石見守、号は徹斎、晩年は剃髪し石見入道徹斎を名乗った。講談などでは「丸目蔵人」の名で知られる。肥後国球磨(くま)郡人吉(現・熊本県人吉市)の領主・相良家の家臣で、幼い頃から剣術に励み、14歳で初陣、肥後国天草郡の本渡城主・天草伊豆守のもとで兵法修行を行った。その後、上洛し新陰流の創始者・上泉信綱に師事し、室町幕府将軍・足利義輝の御前で信綱が新陰流兵法を上覧した際には、長恵が信綱の相手役を務めるなど次第に頭角をあらわし免許を皆伝された。師伝の新陰流に真言密法を取り入れた自分も生かし相手も生かす“活殺剣法”の「タイ捨流」を創始、九州一円の諸藩に広めた。晩年は切原野(現・熊本県球磨郡錦町)にて隠棲生活を送った。長恵は剣術はもとより馬術や槍術などのさまざまな武術に優れただけでなく、書や和歌、笛なども得意とする多才多芸の風流人だったという。墓所は熊本県球磨郡錦町切原野堂山にある。
ツイート |