原田甲斐宗輔の肖像画といわれている
原田甲斐
江戸時代前期の武士、仙台藩の家老。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の中心人物のひとりとして知られる。「甲斐」は通称で、名は宗輔(むねすけ)、幼名は弁之輔、初名は雅楽。父は仙台藩重臣・原田宗資(むねすけ)、母は豊臣秀吉の側室だった香の前の娘。甲斐は陸奥国柴田郡船岡城にて生まれ、父の死により5歳で家督を継いだ。仙台藩の家老となると、わずか2歳の4代藩主・綱村の後見役を務める伊達宗勝(通称:兵部)や田村宗良と藩政を牛耳るようになる。これに反発した保守派の伊達安芸(宗重)は、宗勝ら後見人による専横政治を批判し幕府に訴えた。甲斐ら関係者は幕府の評定を受けるため、幕府大老・酒井忠清の屋敷に集められたがこの時に事件は起きた。甲斐が伊達安芸をその場で斬殺し、さらに同じく反宗勝派の伊達家家老・柴田外記(朝意)にも斬りつけた。外記はその晩に絶命、甲斐も酒井忠清の家臣と江戸町奉行の旗本に斬られ絶命した。事件後、原田家は断絶となった。現在、宮城県登米(とめ)市にある東陽寺に甲斐の首塚がある。一連の騒動「伊達騒動」は歌舞伎や浄瑠璃として脚色され人気を博したが、甲斐は宗勝とともに仙台藩乗っ取りを企む大悪人として描かれる。「伊達騒動」を題材にした代表的な作品として『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』があるが、設定は江戸時代から室町時代に変更され、甲斐も「仁木弾正」という名に変更されている。甲斐をモデルにしたこの弾正は忍術まで使うすさまじい悪役ぶりで、それが見どころのひとつにもなっている。
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