山東京伝の肖像画(鳥橋斎栄里 画)
山東京伝
江戸時代後期に活躍した戯作者、浮世絵師。本名は岩瀬醒(さむる)。初名は田臧(のぶよし)、幼名は甚太郎、通称は京屋伝蔵または田蔵。号は京伝のほかに、山東庵、山東窟、山東軒、珊洞散士、鼯鼠翁、臍下逸人、洛橋陳人、甘谷、菊亭、菊軒、菊花亭。狂歌での号は身軽折輔。江戸は深川で質屋を営む岩瀬伝左衛門の長男として生まれる。弟はのちに山東京山の名で合巻作者として活躍した。京伝は若い頃から遊び人で、のち、遊女を妻として迎えている。14歳の時に浮世絵師・北尾重政に浮世絵を学び、以後、「北尾政演(まさのぶ)」の名で戯作・狂言本などに挿絵を描くように。黄表紙『御存商売物(ごぞんじしょうばいもの)』『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』などがヒットし、やがて黄表紙作者として人気を集めるようになる。しかし、洒落本三部作『錦之裏(にしきのうら)』『仕懸(しかけ)文庫』『娼妓絹(しょうぎきぬぶるい)』が風俗統制を厳しく取り締まる「寛政の改革」にひっかかり、作者の京伝は手鎖50日の処罰を受ける。以降、読本作家へ転向し、『忠臣水滸伝』『昔語稲妻表紙』などの傑作を残した。同時代に人気を集めた読本作家に『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴がいるが、馬琴は京伝に弟子入り志願するも断られたことがある。墓所は東京都墨田区にある回向院。
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