平田靱負の銅像(平田靱負屋敷跡)
平田靱負
江戸時代中期の武士、薩摩藩の家老。別名は次郎兵衛、新左衛門、掃部、靱負。1753年に行われた木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者として知られる。1753年、琉球貿易により財力を蓄える薩摩藩を警戒した幕府は、木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の分流工事を薩摩藩に命じ、工事費用や作業のすべてを薩摩藩に負担させた。この幕府による無理難題に対し総奉行として工事を仕切ったのが平田で、多額の工事費用を捻出するため奔走した。工事は平田ら薩摩藩士の尽力で完成したが、あまりに過酷な工事期間のうちに薩摩藩士のなかには病死や幕府に抗議するための自殺をする者も出て多数の殉職者を出す結果となった。総奉行の平田は藩への多大な負担の責任を取り、切腹し果てた。辞世の句は「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞわづらふ 美濃の大牧」。墓所は京都府京都市伏見にある大国寺(通称:薩摩寺)。なお、宝暦治水の縁により鹿児島県と岐阜県は姉妹県盟約を結んでいる。また、岐阜県海津市には、平田と殉職した薩摩藩士84人を祭神とする治水神社がある。
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