伝国の辞(上杉鷹山が次期藩主に送った藩主の心得)
上杉鷹山
江戸中期の大名で、出羽国米沢藩の9代藩主。破綻寸前の米沢藩を改革により再生させた江戸時代屈指の名君として名高い。一般に知られる「鷹山」は号で、名は治憲(はるのり)、幼名は松三郎のち直松、通称は直丸。父は日向国高鍋藩主・秋月種美(たねみつ)で、高祖父に「赤穂事件」の敵役として知られる吉良上野介義央がいる。高鍋藩の江戸藩邸で生まれ、母方の祖母が吉良上野介義央の子で米沢藩主の上杉綱憲だった縁から米沢藩主・上杉重定(しげさだ)の養子となった。藩主に就任する前、12歳の鷹山は尾張出身の儒者・細井平洲に師事し、学問を学んだ。鷹山は平洲を「生涯の師」と仰ぎ、後年の藩政改革でも指導を仰ぐなど大きな影響を受けた。鷹山が米沢藩9代藩主に就任したのは17歳の時。当時の米沢藩は、破綻寸前の財政難、農村の疲弊に苦しみ末期状態にあった。藩主に就任した鷹山はさっそく藩政改革に着手、殖産興業に通じた民政家・竹俣当綱(たけのまたまさつな)や財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)を中心に、大倹約令の発令、農村復興、地場産業の振興、藩士の帰農用人などさまざまな政策を行った。また、4代藩主・綱憲が設立したが財政難により閉鎖されていた学問所を藩校「興譲館」として設立、藩士・農民の区別なく学問を学ばせ優れた人材の育成にも尽力した。ちなみに、「興譲館」を命名しのは鷹山の師・細井平洲である。35歳の若さで隠居したが、その後も藩政改革に取り組み、徐々に立ち直っていった藩財政により次々代の斉定時代には借債を完済することができた。鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に与えた3か条からなる「伝国の辞」は有名で、その内容は「国(藩のこと)は先祖より子孫へ伝えるもので藩主の私物ではない」「人民は国に属するもので藩主の私物ではない」「国と人民のために存在、行動するのが君主であり、君主のために国と国民が存在するのではない」という君主専制を戒めたもの。「伝国の辞」は上杉家が明治時代に版籍奉還されるまで代々家訓として伝承された。また、有名な「生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり」の歌も次期藩主に伝えられた。生涯を藩政改革に捧げえた鷹山は疲労と老衰のため睡眠中に没した。墓所は山形県米沢市にある上杉家廟所。鷹山といえばアメリカ合衆国35代大統領ジョン・F・ケネディが日本で最も尊敬する政治家としてその名をあげた、という逸話が有名だが、これは当時のある市議会議員が勘違いしてラジオで語ったことがひとり歩きしてしまった結果で事実ではない。しかし、思想家・内村鑑三が著書『代表的日本人』において鷹山を取り上げたり、2007年に行われた読売新聞のアンケートで「理想のリーダー第一位」に選ばれるなど、鷹山の評価は時代を超えて非常に高い。鷹山を題材として小説に『漆の実のみのる国』(藤沢周平)や『小説 上杉鷹山』(童門冬二)など。
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