荻生徂徠の肖像画(川原慶賀 画)
荻生徂徠
江戸時代中期の儒学者、思想家、学者。本姓は物部氏、名は双松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)、通称は総右衛門、一般に知られる「徂徠」は号である。5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生方庵(景明)の子として江戸で誕生。幼少より学問に秀で、儒者の林春斎や林鳳岡に学んだ。14歳の時、父が将軍・綱吉の怒りを買い蟄居、一家で江戸から上総国長柄郡に移住し、徂徠はこの地で独学により学問に励んだ。のち、父の赦免にともない江戸へ戻り、5代将軍・綱吉の側用人である柳沢吉保に仕えた。吉保失脚後は日本橋茅場町に居住し、私塾「蘐園塾(けんえんじゅく)」を開き、多くの人材を育てた。8代将軍・徳川吉宗の政治的助言者としても活躍し、政治改革論『政談』を提出するなどしている。墓所は東京の港区にある長松寺。5代将軍・綱吉の時代に起きた「元禄赤穂事件」の際、徂徠が浪士たちの切腹論を主張したことは有名。また、落語や講談の演目で知られる『徂徠豆腐』は、将軍の御用学者へ出世した徂徠が、貧困時代の恩人である豆腐屋に「元禄赤穂事件」をきっかけに再会するというストーリー。
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