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新井白石の肖像画

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新井白石の肖像画

新井白石
江戸時代中期の旗本、政治家、学者、詩人。6代将軍・家宣と7代将軍・家継の輔佐として幕政を主導し、「正徳の治」と呼ばれる幕政改革を行った。幼名は伝蔵、名は君美(きんみ、きみよし)、仮名は与五郎、通称は勘解由、一般に知られる「白石」は号である。あだ名は「鬼」「火の子」。江戸を焼き尽くした「明暦の大火」の翌日に焼け出された避難先にて生まれる。白石は幼い頃より頭脳明晰で、3歳にして儒学の書物を書き写したという逸話がある。のちに朱子学者・木下順庵の弟子となり儒学を学び、師・順庵の推挙で甲斐国府中藩主・徳川綱豊(のちの6代将軍・家宣)の侍講となった。綱豊が家宣と改名し6代将軍に就任すると、白石は側用人・間部詮房とともに家宣の右腕として幕政を主導、通貨改良、長崎貿易制限、対朝鮮外交の刷新と対琉球外交の強化、司法改革などを行い幕政の改革に尽力した。6代将軍・家宣が没し、その子・家継が7代将軍となっても白石は引き続き間部とともに幕政を主導したが、家継が早世し8代将軍・吉宗の時代となると白石は失脚、幕政から去ることとなった。晩年は不遇の身であったが著作活動に専念、回想録『折たく柴の記』をはじめ譜大名の家系図を整理した『藩翰譜』、古代史についての『古史通』、西洋事情を記した『西洋紀聞』など多数の著書を残した。墓所は東京の中野区にある高徳寺。

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