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早水藤左衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

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早水藤左衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

早水藤左衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。藤左衛門は通称で、名は満尭(みつたか)。備前国岡山藩の池田家家臣の子として生まれたが、家督を兄が継いだため、播磨国赤穂藩の浅野家家臣・早水家の婿養子となった。藤左衛門は、弓術では海内無双と謳われた星野茂則に師事し、弓矢にかけては藩内に並ぶ者なし、といわれた弓矢の達人として知られる。また、和歌や絵画もたしなむ文武両道の士で、仲間からの信頼もあつかった。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は江戸におり、萱野三平とともに急使となり、第一の早籠で江戸から赤穂まで155里(約620km)を4日半でかけぬけ第一報を赤穂に伝えた。以降、義盟に加わり大石内蔵助派として行動した。討ち入りまでの間、18歳だった同志の橋本平左衛門が大坂で遊女と心中自殺をするという事件が起きた。藤左衛門は引き取り手のいなかった橋本の遺体を引き取り埋葬、心中の後始末も行った。討ち入りに際しては表門隊に属し、得意の弓矢で奮戦、討ち入り後は熊本藩の細川家屋敷にお預けとなり切腹した。辞世の句は「地水火風空のうちよりいでし身のたどりて帰るもとのすみかに」。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。

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