倉橋伝助(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)
倉橋伝助
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伝助は通称で、名は武幸(たけゆき)。7歳(6歳とも)の時に父を亡くし幼くして家督を継ぐと、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に中小姓として仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時は、参勤交代で同行していたため伝助も江戸におり、同じく江戸にいた堀部安兵衛に同調して江戸急進派のひとりとなった。しかし、お家再興を望む大石内蔵助に派遣された吉田忠左衛門の説得を受け、討ち入りの時機を今かと待った。江戸では堀部安兵衛の借家に住み、同じく義士の前原伊助が営む店の手代「十左衛門」として吉良側の動向を探った。討ち入りに際しては裏門隊に属し、亡き主君・長矩から拝領した大太刀を武器に奮戦した。討ち入り後、長門国長府藩の毛利家屋敷にお預けとなり、のち切腹。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。講談などでは幕府旗本の次男ながら放蕩で身を持ち崩し、木更津の髪結床に弟子入りし浅野家に中間奉公した、ということになっているがもちろん創作。
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