板倉重昌の肖像画
板倉重昌
安土桃山時代から江戸時代初期の武士、大名、三河国深溝(ふこうず)藩主。徳川氏の重臣で初代京都所司代として名高い板倉勝重の子として駿河国駿府(現・静岡県静岡市)にて生まれ、16歳の時から徳川家康に仕えた。家康からの信頼あつく、「大坂冬の陣」では豊臣方との交渉役を務めた。1637年(寛永14)、九州で「島原の乱」が勃発すると重昌は幕府軍の総大将となり一揆軍鎮圧に向かう。しかし、一揆軍の抵抗はすさまじく戦線は膠着、事態を重く見た幕府は“知恵伊豆”の異名を持つ老中・松平信綱を大将とする援軍の派遣を決定。これに焦った重昌は、1638年(寛永15)に総攻撃を決行するが、統制の乱れる幕府軍は大損害を出し、重昌も眉間を銃弾に貫かれ壮絶な戦死を遂げた。辞世は「あら玉のとしの始に散花の名のみ残らば先がけとしれ」と伝わる。墓所は長崎県島原市にある江東寺。重昌の子孫はその後、明治まで続いた。
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