徳川吉宗の肖像画
徳川吉宗
江戸幕府の8代将軍。将軍就任前は越前国葛野藩主、紀州藩5代藩主を務めた。幼名は源六、通称は新之助、あだ名は「米将軍」。徳川御三家の紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれるが、父や兄たちの死で紀州藩主となり、藩政機構の簡素化や質素倹約の徹底による財政再建など藩政改革に着手、たぐいまれなる政治家としての手腕を発揮した。7代将軍・家継が8歳で早世すると大奥や幕臣の支持を得て、御三家出身者として初めて将軍に就任した。将軍となった吉宗は紀州藩主時代に行った藩政改革を幕政に応用し、側近政治の廃止や質素倹約と増税による財政再建、新田開発、公事方御定書を制定しての司法改革、江戸町火消しの設置、目安箱の設置など大胆な幕政改革を実施した(享保の改革)。また武芸を奨励し、綱吉時代に禁じられた鷹狩りも復活させている。将軍職を長男・家重に譲ったあとも大御所として君臨し生涯、幕政を主導した。幕府立て直しの功績から江戸幕府「中興の祖」ともいわれた吉宗だが、1751年、脳卒中のため死去。墓所は東京の上野にある寛永寺。曽祖父にあたる初代将軍・家康を崇拝していたという。
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