徳川家康の肖像画
徳川家康
戦国の三英傑のひとり(ほか、織田信長、豊臣秀吉)で江戸幕府の初代将軍。 幼名は竹千代。通称は次郎三郎。「神君」「権現様」とも呼ばれる。おもな官位は右大臣(内府)・将軍。号は東照大権現(読み方 とうしょうだいごんげん)。改名として松平元信→元康→家康→徳川家康。 戦国時代のまっただなか、岡崎城主・松平広忠の子として誕生するが、6歳の時、今川氏へ人質として送られるも今川氏と対立する織田氏の人質となる。数年後、あらためて今川氏へ人質として送られ忍従の日々を過ごす。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると今川氏と決別、信長と同盟を組み三河・遠江への勢力を拡大していった。信長没後、天下の覇権を握った豊臣秀吉と対立し、1584年、小牧・長久手の戦いで激突、戦後、豊臣氏に臣下の礼をとった。豊臣政権下では五大老の筆頭として権力を持ち、秀吉没後の1600年、関ヶ原の戦いで石田三成を下し天下の覇権を我がものとする。1603年には征夷大将軍に任じられ、江戸に江戸(徳川)幕府を開いた。2年後には早くも将軍の座を三男・秀忠に譲り、自らは駿河国駿府城へ隠居、以後、「大御所」としてこれまで通り権力を持ち続けた。そして、1614~15年、大坂冬の陣、夏の陣でついに豊臣氏を滅ぼし、徳川氏の天下を不動のものとし、応仁の乱から100年以上続いた無政府状態(戦国時代)に終止符を打った。1616年、駿府城にて死去、日光東照宮に祀られた。弓術、剣術、水練など武術に優れたほか、鷹狩りを好み、“健康オタク”と評されるほど健康志向が高かったといわれる。
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