大野治長 名護屋城陣跡
大野治長
通称は修理亮。おもな官位は従四位下修理大夫。
母は、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母である大蔵卿局。その縁で豊臣秀吉に取り立てられこれに仕え、秀吉没後は、その子・秀頼に近侍した。
1614年に豊臣家の家老・片桐且元が大坂の陣勃発の遠因として名高いいわゆる「方広寺鐘銘事件」の責任を問われ大坂城を退くと、治長は大坂城内の中心的存在となった。同年暮れに大坂冬の陣が始まると、治長は徳川方との講和交渉に尽力。無事に講和締結はなされたが、徳川方は約定を無視し大坂城の内堀を埋めてしまった。これに対し大野治長は抗議を申し入れたが、徳川家康の参謀・本多正純に煙にまかれ、結果、大坂城は裸城同然となってしまった。
そして翌1615年、大坂夏の陣では、豊臣方の敗北が濃厚となると、治長は二代将軍・徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室・千姫を徳川方へ届け、自らの命と引き換えに淀殿・豊臣秀頼の助命を嘆願した。しかし、治長の願いは聞き入れられず、淀殿と秀頼は大坂城で自害、1615年6月4日、大野治長も彼らに殉じ自害した。
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