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長谷川等伯像(京都の本法寺)

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長谷川等伯像(京都の本法寺)

長谷川等伯
安土桃山時代から江戸時代にかけての絵師で「長谷川派」を形成した。 幼名は、又四郎。のちに帯刀と称した。父は能登国七尾城主・畠山氏の家臣といわれ、幼少期に染物業を営む長谷川宗清の養子になったといわれている。 熱心な日蓮宗の信者であった長谷川等伯は、はじめ能登地方で仏画や肖像画などを描いていた。30歳を過ぎた頃、等伯は上洛し狩野派の技法を学んだり、千利休らを通じて堺の数寄者と交流し中国絵画の知識や技術を吸収していった。やがて、精緻かつ鮮麗な独自の画風を確立し「長谷川派」と呼ばれる一派を形成、ライバル視していた狩野派と並び立つまでになった。 現在、等伯の作品は80点余りが確認されているが代表作といえば、豊臣秀吉の遺児・鶴松の菩提寺である祥雲寺の金碧障壁画と聚楽第にあったといわれる『松林図屏風』だろう。 長谷川等伯は、1610年に徳川家康に招かれ次男・宗宅とともに江戸へ下向したが、江戸に到着した2日後に病により没した。

Originally uploaded by: ttomo115

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