尼子勝久の錦絵(落合芳幾画『太平記英雄傳 尼子四郎勝久』
尼子勝久
幼名は孫四郎。1553年に新宮党尼子誠久の息子(5男)として誕生したが、翌1554年、祖父・国久と父・誠久が尼子宗家の権力強化を狙う尼子晴久によって粛清されてしまう。勝久は難を逃れ、京の東福寺で出家し僧となった。
それから14年後の1568年、毛利元就によって尼子氏が滅ぼされたために浪人となっていた山中幸盛(鹿介)らに擁立され、勝久は還俗、尼子氏再興を目指すことになった。翌年から尼子氏の旧臣の援助を受け挙兵すると、一時は出雲の大半を回復する勢いであったが、1570年、布部山の戦いで毛利氏に大敗、京へと逃れ織田信長を頼った。
その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国派遣軍に組み入れられ播磨国上月城の守備を任されたが、1578年、毛利氏の大軍に上月城を攻められた。勝久は篭城し抗戦したが、猛攻に耐えられずついに降伏、勝久は嫡男らとともに自害し果てた。
この時、尼子勝久は、捕虜となった家臣の山中幸盛(鹿介)らに「僧として一生を送るはずだった自分を一度は尼子の大将にしてくれたことを感謝する。各々は命を大切にするように」と語ったという。まだ25歳であった。
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