細川忠興の肖像画
細川忠興
室町幕府の幕臣・細川藤孝の息子(長男)。正室は父・藤孝の盟友でもあった明智光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)。豊前国小倉藩の初代藩主でもある。また、父・藤孝と同じく文化人としても知られ、利休七哲のひとりであり、茶道の流派・三斎流の開祖でもある。
幼名は熊千代、のち与一郎と名乗った。通称は丹後少将。丹後宰相、丹後侍従とも呼ばれた。おもな官位は越中守、侍従、左少将。
初め、織田信長の嫡男・信忠に仕え、1577年の紀州征伐で初陣を飾った。1582年、岳父である明智光秀が本能寺の変を起こした際は父・藤孝とともに光秀からの誘いを拒否し、妻・ガラシャを幽閉するなど織田家に敵意がないことを明確に示した。
その後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が政権を打ち立てるとこれに臣従し、1584年の小牧・長久手の戦い、1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐などに参加し活躍、1588年には豊臣姓を下賜されるなど秀吉から重用された。
時代に対する嗅覚に優れていた細川忠興は秀吉が没すると徳川家康に接近し、1600年の関ヶ原の戦いではいち早く東軍に与することを決め、豊臣恩顧の大名たちに多大な影響を与えた。なお、忠興が溺愛していた妻のガラシャは関ヶ原の戦いの際、西軍の人質になることを拒否し死を選んだ。戦後、本戦でも活躍した忠興はその功を賞され丹後12万石から豊前33万9000石に加増転封となり、小倉藩初代藩主となった。
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