毛利輝元の肖像画
毛利輝元
豊臣五大老のひとり(ほかは、徳川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家)。長州藩初代藩主。
幼名は幸鶴丸。別名は少輔太郎。通称は安芸中納言。号は幻庵(宗瑞とも)。おもな官位は右衛門督、右馬頭、従四位下侍従、参議従三位権中納言。
祖父は毛利元就で、輝元は元就から厳しい教育を受けたが優柔不断で凡庸な人物だったといわれる。1553年、輝元は毛利隆元の息子(長男)として誕生。1563年、父の急死によりわずか10歳で毛利家の家督を継ぎ、祖父・元就がその後見として政務を執った。その元就も1571年に死去すると、輝元は「毛利両川」と呼ばれた小早川隆景と吉川元春、2人の叔父のサポートを受け、尼子勝久や大友宗麟らと戦い中国地方での勢力拡大を進めていった。
1576年、織田信長によって都を追われた室町幕府の十五代将軍・足利義昭を備後国鞆に保護、さらに、信長と対立していた石山本願寺に味方するなど織田信長への対立姿勢を明らかにする。1576年の第一次木津川口の戦いでは自慢の毛利水軍で織田水軍を撃破し大勝利を収め、その後も毛利側が優位に立っていたが、織田家家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の中国攻略が始まると秀吉の巧みな戦いの前に毛利側は次第に追い込まれ、1582年、毛利輝元は秀吉と和睦を結んだ。なお、この講和の直前に織田信長は本能寺で死亡しており、秀吉は信長の死を秘したまま毛利と和睦し、京へ急ぎ戻り明智光秀を討っている(中国大返し)。
秀吉が天下人となると輝元はこれに臣従し九州征伐や文禄・慶長の役などに参加、その功により徳川家康らとともに「五大老」に任じられた。
1600年、関ヶ原の戦いが勃発すると輝元は西軍の総大将に祭り上げられたが、東軍に通じていた一族の吉川広家が毛利軍の本戦参加を阻止したため、毛利軍が本戦に出陣することはなかった。これにより戦後、毛利氏は滅亡を免れたが、領地は大きく削られ周防・長門のわずか2国に閉じ込められることとなってしまった。この後、輝元は剃髪し隠居、1625年、萩の屋敷で死去した。
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