織田信雄の肖像画
織田信雄
織田信長の息子(次男)。
幼名は茶筅丸。通称は三介。尊称は御本所。号は常真。北畠家の養子時代は、北畠具豊、信意と名乗り、その後、織田信勝とも名乗った。叔父の織田有楽斎から茶を学び茶人としても知られるだけでなく、能の名手でもあったという。
1558年、信雄は織田信長の次男として誕生したが、1569年に信長が伊勢攻めを行った際、北畠氏との和睦条件として北畠具房の養嗣子となり、北畠氏の家督を相続した。天下統一を目指す父・信長の主な戦いに参加している。1582年、本能寺の変により父・信長が没し、兄・信忠も明智光秀との戦いで横死すると、信雄は織田家の家督を継がんとしたが、信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信)を担いだ秀吉の台頭により信雄の目論見は失敗に終わった。
その後、信雄は秀吉との関係が悪化していくと徳川家康に接近、1584年、家康と連合を組み羽柴秀吉と激突した(小牧・長久手の戦い)。だが、旗色が悪くなるや信雄は同盟者の家康に無断で秀吉と単独講和を結んでしまう。大義名分を失った家康も撤退を余儀なくされた。以後、信雄は秀吉に臣従し、1586年の九州征伐、1590年の小田原征伐などに参加した。だが、小田原征伐後の論功行賞で信雄は家康の旧領への移封を拒否、それが秀頼の怒りを買うことになり改易され、さらに下野国へ流罪となり出家して常真と号した。
1600年の関ヶ原の戦いでは西軍・東軍どちらにも与しなかったが、1614年の大坂冬の陣では徳川方に付き、戦後、家康から大和国宇陀郡や上野国甘楽郡など5万石を与えられた。1630年6月10日、京で死去した。
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