織田秀信の肖像画
結城秀康
幼名は於義丸。別名は越前卿、越前黄門、越前宰相、越前少将。おもな官位は、三河守、権中納言、正三位、贈正二位。
徳川家康の次男で、母は側室の於万の方。秀康は生まれた時から父・家康に嫌らわれており、長兄・信康のとりなしでようやく3歳の時に家康と対面を果たしたが、家康の態度は実にそっけないものだったという。1584年、小牧・長久手の戦いののち、秀康は羽柴秀吉のもとへ養子に出され、1587年の九州征伐で初陣を飾ると、生来の豪胆さと天賦の武勇を発揮し、小田原征伐など数多の戦いで武功を挙げた。
しかし、秀吉に実子・鶴松が誕生したため、秀康は結城晴朝の養子となり、北関東の名門・結城家の家督を継いだ。1600年の関ヶ原の戦いでは、家康から上杉景勝をけん制するための押さえとして宇都宮城での留守居役を命ぜられ、戦後、秀康は越前一国68万石を与えられ御三家に次ぐ別格の待遇を受けた。
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