徳川秀忠の肖像画
徳川秀忠
徳川幕府第2代将軍。
幼名は竹千代成。おもな官位は、征夷大将軍、右大臣、太政大臣、武蔵守。父は徳川幕府初代将軍となった徳川家康、母は側室の西郷局。秀忠は三男であったが、長兄の信康は織田信長の命により自害、次兄の秀康も豊臣秀吉の養子(のちに結城氏を継いだ)になっていたため、秀忠が世子となった。
秀忠は恐妻家としても知られ、正室である江(於江与)に頭が上がらず、生涯ひとりの側室も持たなかった。だが、側女のひとりが秀忠の子を産んでおり、秀忠は密かにその子を保科氏に養子に出している(のちの保科正之)。
1600年の関ヶ原の戦いでは秀忠は徳川軍の主力部隊を率いて東山道を上ったが、途中、信濃国上田城で真田昌幸・幸村父子に苦戦を強いられ、さらに天候不順が重なり行軍が遅れ関ヶ原本戦に間に合わないという大失態を犯す。これに対し、父・家康は大激怒し、一時は後継者としての地位も危うかったという。だが、1603年、徳川家康は征夷大将軍の座に就き江戸に幕府を開くと、そのわずか2年後、秀忠に将軍職を譲り徳川家による将軍職世襲を世に示した。
徳川家康が秀忠を二代将軍に決めたのは、秀忠の律儀で温厚な性格が、自分の意思を継ぎこれから泰平の世をつくるトップにふさわしいと考えたからといわれる。こうして二代将軍となった秀忠だが、実際の政治は駿府城にいる大御所・家康との二元政治であり、秀忠が将軍親政を開始するのは家康が没した1616年以降のこと。カリスマ的なリーダーシップを誇った父・家康の遺志を忠実に守り、秀忠は徳川幕府の礎を築くため、大名統制を積極的に行う一方、娘・和子を後水尾天皇に入内させるなど幕朝関係の強化にも力を入れた。
1623年、秀忠は嫡男・家光に将軍職を譲ると、父・家康と同じく大御所政治を行い、1632年に死去した。
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