後藤又兵衛の肖像画
後藤又兵衛
後藤基次(ごとうもとつぐ)が本名だが、通称は又兵衛で、一般的には後藤又兵衛の名前でよく知られている。
「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」「秀頼四天王」「大坂城七将星」のひとりであり、戦国時代屈指の名武将。
黒田孝高(官兵衛、如水)・長政父子に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは黒田長政に従って東軍として参戦し活躍した。その功により戦後、大隈城を預けられ1万6000石の所領を与えられたが、1606年、主君・黒田長政との不和から基次は黒田家を出奔、浪々の身となる。1614年、大坂冬の陣が勃発すると浪人生活を送っていた後藤又兵衛は、豊臣秀頼の招きに応じいち早く大坂城入りを果たし、主戦派の中心人物として活躍した。翌1615年の大坂夏の陣では道明寺方面に出撃したが、霧の発生により後続軍の到着が遅れ、後藤又兵衛の部隊は孤立。10倍以上もの大軍を相手に孤軍奮闘したが、伊達軍の鉄砲隊に撃たれついに戦死した。なお、全国各地に後藤基次生存伝説が残っている。
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