古田織部の肖像画
古田織部
一般的には武将・古田重然としてより、「織部好み」と呼ばれる大胆かつ自由な気風を特色とする流行を生んだ茶人・古田織部として知られている。
初名は景安。名は重然。通称は左介。別名を古左、古織とも。おもな官位は織部正、従五位下。
近年では、重然を主人公にした漫画『へうげもの』のヒットによりその名が広く知られるようになった。古田重然はもともと美濃の守護大名・土岐氏に仕えていたが、織田信長が美濃を平定すると、父とともに信長に属した。1568年、織田信長が上洛した際はこれに従い京へ上り、以後、摂津攻略や播磨攻め、丹波攻めなどに参加し武将として活躍した。織田信長没後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、紀州根来攻め、四国征伐などに出陣、慶長の役では朝鮮にも渡っている。1585年に秀吉が関白になると、重然はこれまでの功績により山城国西岡に3万5000石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍についたが、1615年の大坂夏の陣の際、豊臣方への内通および京での挙兵などを疑われ、切腹を命じられた。これに対し重然は一切の釈明をせず、嫡男・重広とともに自害したという。
茶人としての古田織部は利休七哲のひとりに数えられ、千利休の死後、豊臣家筆頭茶人を務め天下の茶人としての地位を確立した。その美意識は独特で、奇抜で斬新な形や文様を持つ「織部焼」を生み出した。
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