真田信之の肖像画
真田信之
幼名は源三郎。初名は信幸。別名は一当斎。おもな官位は伊豆守、従五位下。父は真田昌幸、弟は真田幸村(信繁)。
父・昌幸が武田氏に仕えていたため、少年期を武田氏の人質として過ごした。1582年に主家である武田氏が滅亡すると真田家の自領と家名を守るため父・昌幸とともに奮戦した。特に1585年の第一次上田合戦では、徳川方の大軍勢を相手に信之はたった300余人の兵力で勝利するという大金星を挙げた。その後、父・昌幸が豊臣秀吉に仕え、真田家が徳川家康の与力大名となると、昌幸は信之を家康に出仕させた。家康は信之の才を高く買い、重臣・本多忠勝の娘である小松姫を自分の養女とし信之と娶わせた。
そして1600年、関ヶ原の戦いが勃発。父・昌幸と弟・幸村(信繁)は西軍に、家康の養女を妻とする信之は東軍につき父と弟を相手に戦うことになった。戦後、東軍勝利に貢献した信之は父・昌幸の旧領である上田の地を与えられ上田藩主となった。
真田信之は敗者となった父と弟の助命嘆願を行い、これにより昌幸と幸村は死罪を免れ紀伊九度山へ流罪となった。信之は2人の九度山での生活を陰ながら援助したという。上田藩主となった信之は城下町の整備や農村事業に力を入れ上田藩を豊かにしていった。しかし、1622年、信之は信濃国松代藩へ加増移封され、真田家ゆかりの地である上田を去った。
1658年11月12日に死去するまで現役として藩政を執り続けた信之は、戦国時代を知る数少ない人物として、幕府内でも一目置かれていたという。
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