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真田昌幸の肖像画

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真田昌幸の肖像画

真田昌幸
幼名は源五郎。改称し武藤喜兵衛、真田昌幸と名乗った。おもな官位は阿波守、従五位下。真田信之、真田幸村(信繁)兄弟の父としても有名。 昌幸は6歳の時に人質として甲斐国へ行き、武田信玄に仕えるようになった。この間に武田家と縁のある武藤家の養子となり「武藤喜兵衛」を称した。武田信玄からあつく信頼された昌幸は、信玄没後も武田家を継いだ武田勝頼に仕えた。真田家の家督は兄が継いでいたが、1575年の長篠の戦いで長兄・次兄が討ち死にし、昌幸が真田家の家督を継ぐことになった。 1578年、昌幸は武田勝頼の力を背景に上州沼田へ進出、沼田城を手中に収めた。1582年に武田氏が織田信長によって滅亡すると、昌幸は信長に仕え本領を安堵されたが、それからわずか3ヵ月後、今度は信長が本能寺の変で死去。真田昌幸は自領を守るため、相争う北条、徳川、上杉氏3勢力の間を渡り歩いた。 真田昌幸の名とその知略が天下に知られるようになったきっかけが、1585年の第一次上田合戦である。ことの起こりは昌幸が徳川家康に仕えていた時、北条氏政との講和条件として家康が沼田領の割譲を氏政へ提示したことに昌幸が猛反発し、沼田領の返還を拒否したことにある。激怒した家康は約7000の兵力をもって昌幸が守る上田城を攻撃。これに対し昌幸の兵力はわずか1200人ほどだったが、昌幸は地の利を活かした巧みな戦法で徳川軍に大損害を与え、撃退に成功したのだった。 戦後、昌幸は豊臣秀吉に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは次男・幸村(信繁)とともに西軍として参戦、徳川秀忠軍3万8000余を上田城にて約2000の兵で迎え撃ち、再びその知略をもって徳川軍を翻弄した(第二次上田合戦)。しかし真田軍の活躍もむなしく西軍は敗北、上田城は開城を余儀なくされ、昌幸・幸村(信繁)父子には所領没収、死罪が命じられた。だが、東軍に属していた嫡男・信之の助命嘆願により、昌幸は幸村とともに紀伊国の九度山で蟄居となった。1611年、昌幸は病によりその生涯に幕を下ろした。

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