京極高次の肖像画
京極高次
幼名は小法師。別名は羽柴大津宰相、京極侍従、京極若狭守。あだ名は蛍大名。官位は従三位参議。母は浅井長政の姉・京極マリアで、正室は浅井長政の娘たち「浅井三姉妹」の次女・初。
京極高次は、十五代将軍・足利義昭に仕えていた北近江の守護・京極高吉の長男として生まれ、幼少期は美濃国で織田信長の人質として過ごした。1582年に織田信長が本能寺の変で没すると、高次は妹・竜子の婿である武田元明とともに明智光秀に味方し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の居城・長浜城を包囲。しかし、明智光秀が討たれてしまったため、高次は若狭国へ亡命した。なお、妹婿の武田元明は秀吉の命により自害、妹の竜子は秀吉の側室「松丸殿」となった。高次も本来は自害を命ぜられるところだったが、妹の懇願により罪を許され、以後、秀吉に仕えた。その後、1585年の九州征伐や1590年の小田原征伐などで功を挙げ出世し、1595年には近江国大津城6万石の城主となった。だが、この出世の影には秀吉の側室となった妹や、秀吉の側室・淀殿の妹でもある妻の存在も大きかったため、高次は「蛍大名」と揶揄されることもあったという。
1600年の関ヶ原の合戦では高次はひそかに徳川家康に通じ、大津城において毛利元康・立花宗茂らの大軍勢を相手に篭城戦を展開、降伏したものの結果的に大軍勢の足止めに成功し、東軍の勝利に貢献した。これにより、戦後の論功行賞で高次は若狭国へ加増転封され小浜城主となった。
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