伊達輝宗の肖像画
伊達輝宗
幼名は彦太郎(のちに総次郎)。おもな官位は左京大夫、従四位下。正室は最上義光の妹・義姫。「独眼竜」政宗の父としても知られ、政宗の教育に熱心だったという。
1565年頃に家督を継いだが、父・伊達晴宗との対立や重臣である中野宗時・牧野宗仲父子の専横、周辺諸国との微妙な均衡関係など輝宗を取り巻く環境は複雑だった。
1570年、輝宗は宗時・宗仲父子を追放すると家中の実権を握り、外交問題にも力を注ぎ南奥羽における伊達家の勢力を強めていった。1584年、嫡男・政宗が18歳となると輝宗は家督を譲り、隠退。しかしその翌年、政宗と交戦していた二本松城主・二本松(畠山)義継によって輝宗は拉致されてしまう。そして、輝宗を連れ二本松へ向かう義継を追ってきた伊達勢の銃撃により義継とともに輝宗も撃たれ、最期を遂げた。
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