等持院・足利義昭像
足利義昭
十二代将軍・善晴の子で室町幕府最後の将軍。
初名は義秋。法名は覚慶、昌山。あだ名は鞘公方。おもな官位は征夷大将軍、左馬頭、権大納言。
足利将軍家の家督相続者ではなかったため仏門に入っていたが、兄・足利義輝が松永久秀ら「三好三人衆」に暗殺されると幽閉されてしまう。しかし、細川藤孝らの援助により奈良からの脱出に成功。その後、幕府再興のため越前の朝倉孝景のもとに身を寄せる。次に義昭は京を目指す織田信長に目をつけ応援を頼むと、1568年、信長とともに上洛し、念願だった十五代将軍の座に就いた。
だが、義昭と信長はしだいに対立するようになり、義昭は信長との決別を決意。そして、武田信玄や上杉謙信、本願寺顕如、浅井長政、朝倉孝景らに書状を送り信長包囲網を張らんとした。1573年には自ら挙兵したが、信長軍に敗北、義昭は京を追放されることとなり、ここに室町幕府は滅亡した。
1588年、信長のあとを継いで天下人となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)が関白に任ぜられると義昭は将軍職を辞した。
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