細川幽斎の肖像画
細川幽斎
細川藤孝でも知られる。幼名は萬吉。通称は与一郎。号は幽斎玄旨。おもな官位は兵部大輔、大蔵卿法印。
将軍・足利義輝に仕えていたが、義輝が松永久秀らに暗殺されると幽閉されていたその弟・義昭を救出し、朝倉義景や織田信長らに助力を頼み将軍任官、室町幕府再興に奔走した。その後、義昭と織田信長の対立が激化すると、細川幽斎は信長に恭順、長岡一帯の支配を任され勝竜寺城の城主となった。なお、この時改称し長岡氏を名乗っている。
信長の家臣となった幽斎は畿内各地を転戦し活躍、のちに明智光秀の与力となり丹波・丹後攻略に尽力した。1582年、上役にして親友の光秀が信長に謀反を起こす。幽斎は光秀から再三協力を求められたがこれを拒否、剃髪して幽斎玄旨と号し家督を嫡男・忠興に譲ると田辺城に隠居した。
その後、細川幽斎は秀吉、家康に仕え晩年は京で悠々自適の隠居生活を送った。当代きっての文化人という顔も持つ幽斎は、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の古今を伝授され近世歌学を大成させたことでも知られる。また、歌道だけでなく茶道や囲碁などの諸芸、さらには剣術や弓術などの武芸にも優れていたという。
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