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細川重賢の肖像画(永青文庫 所蔵)

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細川重賢の肖像画(永青文庫 所蔵)

細川重賢
江戸時代中期の大名、肥後国熊本藩6代藩主。藩政改革(宝暦改革)を断行し「肥後の鳳凰」と賞賛された名君として名高い(同じく江戸中期に藩政改革を成功させ名君と呼ばれた人物に上杉鷹山がいる)。また、蘭学に傾倒し薩摩の島津重豪、久保田の佐竹義敦らとともに「蘭癖大名」と呼ばれた。幼名は六之助、初名は長岡紀雄、号は銀台。熊本藩4代藩主・細川宣紀(のぶのり)の子として江戸藩邸にて生まれる。兄3人が早世し、5代藩主となった兄・宗孝にも子がなかったので兄の養子となり、その没後に重賢が6代藩主となった。当時の熊本藩は参勤交代の費用にも窮乏するほどの財政難にあり、重賢も部屋住み時代には質屋に通ったという逸話も残る。藩主に就任した重賢はすぐさま藩政改革に乗り出し、堀勝名(かつな)を中心に改革を断行、質素倹約の奨励、地場産業の振興、藩校「時習館」や日本初の公立の藩の医学校「再春館」(熊本大学医学部の前身)を創設しての人材育成などを行い、藩の再生に成功した。また、刑法の見直しも行い当時もっとも優れているといわれた『刑法叢書』の編纂にもあたった。墓所は熊本市横手にある北岡公園内の妙解寺。

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