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雨森芳洲の肖像画

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雨森芳洲の肖像画

雨森芳洲
江戸時代中期の儒学者。諱は俊良のち誠清(のぶきよ)、通称は藤五郎・東五郎、号は芳洲、字を伯陽、漢名として雨森東を名乗った。近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)にて医者の子として生まれた。はじめ医者を志し京で医学を学ぶが、やがて儒学に目覚め、18歳の頃に江戸へ出て朱子学者・木下順庵の門下に入った。同門には新井白石、室鳩巣、祇園南海らがおりいずれも秀才で知られた。22歳で師・順庵の推挙により対馬藩に儒者として仕官、朝鮮方佐役となり釜山に渡ると倭館に滞在し朝鮮語や中国語を学んだ。その語学力から朝鮮通信使来日の際には真文役(記者)として江戸へ随行したほか、外交使節として日朝外交の場で活躍した。しかし、対馬藩の朝鮮政策に対する不満から1721年(享保6)に朝鮮方佐役を辞任、家督を長男に譲ると著作に専念した。外交に通じた芳洲はその著書『交隣提醒』に「誠信外交」を説いている。また、外交における通訳の重要性を指摘し、その待遇改善と育成にも尽力した。墓所は長崎県津島市厳原町にある長寿院。

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