History Guide

大槻玄沢の肖像画(小田百谷 画、磐水 筆)

edo

大槻玄沢の肖像画(小田百谷 画、磐水 筆)

大槻玄沢
江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)、出身地の磐井にちなみ「磐水(ばんすい)」と号した。『解体新書』の翻訳で名高い蘭学者・杉田玄白と前野良沢の弟子で、通称の「玄沢」は師である2人から1文字ずつもらってつけたもの。一関藩の藩医・大槻玄梁の子として陸奥国西磐井郡中里(現・岩手県西磐井郡)に生まれ、13歳の時に同郷の医師・建部清庵に指示し医学を学び、長じて江戸へ遊学に出ると杉田玄白の私塾「天真楼」にて医学を学ぶかたわら、前野良沢にオランダ語を学んだ。長崎遊学中にはオランダ通詞・本木良永に奇遇し語学の習得に励んだ。1786年(天明6)、江戸詰めの仙台藩医となり江戸へ出ると、私塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開き多くの優れた門弟を育てた。特に「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた、橋本宗吉、宇田川玄真、稲村三伯、山村才助は名高い。玄沢により蘭学は本場長崎だけでなく江戸でも本格的に学べるようになり、その裾野は格段に広がった。また、1794年(寛政6)に江戸へ出府していたオランダ商館長(カピタン)に初めて対談した玄沢は、この年の閏11月11日が西暦で1795年1月1日にあたることから、私塾「芝蘭堂」に多くの蘭学者やオランダ愛好家を招き、「オランダ正月」と呼ばれる新年会を開いた。この新年会は以後、数十年にわたり毎年開かれ、招待客のなかには師の杉田玄白やロシア帰りの大黒屋光太夫などもおり、蘭学者たちの交流と最新情報の交換の場となった。ちなみに、玄沢は自著『蘭説弁惑』のなかで「“びいる”とて麦にて造りたる酒あり」と記載しており、日本で初めてビールを世間に紹介した人物ともいわれている。著書は非常に多く、代表的なものとして、蘭学入門書『蘭学階梯』、師の杉田玄白から改訂を命じられた『解体新書』の改訂版『重訂解体新書』、オランダ商館長との対談をまとめた『西賓対晤』などがある。墓所は東京都港区にある東禅寺。玄沢の息子・大槻磐渓、孫の国学者・大槻文彦とあわせ故郷の一関では「大槻三賢人」と呼ばれている。

このエントリーをはてなブックマークに追加