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松平定信の肖像画

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松平定信の肖像画

松平定信
江戸時代中期の大名で、陸奥白河藩3代藩主。幕府老中として“三大改革”のひとつ「寛政の改革」を実行したことで知られる(ほか2つは「享保の改革」「天保の改革」)。8代将軍・徳川吉宗は祖父にあたる。幼名は徳川賢丸(まさまる)。御三卿のひとつ田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として田安屋敷にて誕生、幼い頃から聡明で知られた。一時期は10代将軍・家治の後継者とまでささやかれたが、時の権力者・田沼意次の政治を「賄賂政治」と非難したため、陸奥白河藩主・松平定邦の養子とされた。白河藩主として定信は、天明の大飢饉のあとみごとに藩政を立て直すなどその政治手腕を発揮した。その有能ぶりを買われ、田沼意次死後の1787年、徳川御三家の推挙を受け老中首座となった。同時にまだ若い11代将軍・家斉の補佐役にも任命された。幕政のトップとなった定信は田沼政治時代の人員を一掃し、祖父・吉宗が行った「享保の改革」を手本に「寛政の改革」を断行、緊縮財政や風紀取締りなどにより幕府再建を目指した。しかし、あまりに極端な倹約や思想統制令は、文人・大田南畝に「白河の清きに魚すみかねてもとの濁りの田沼こひしき」と揶揄されるほどで、幕府内だけでなく庶民の反発も買うこととなり、6年余りで定信は失脚、改革も終了した。老中失脚後、定信は白河藩主として白河藩の発展に尽力、名君として慕われたという。1829年、病により死去。辞世の句は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」。墓所は東京の江東区白河にある霊巌寺。

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