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徳川宗春

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徳川宗春

徳川宗春
江戸時代中期の大名で、徳川御三家のひとつ尾張徳川家7代当主にして尾張藩7代藩主。幼名は萬五郎、初名は通春、通称は求馬。尾張藩3代藩主・徳川綱誠の二十男として名古屋にて生まれる。梁川藩3万石の藩主となるが、兄で尾張藩6代藩主・継友が急死したため、宗春が7代当主となった。7代藩主となった宗春は名古屋入りの際、鼈甲の唐人笠をかぶり黒ずくめの衣装で漆黒な馬にまたがるという奇抜ないでたちをし、同行する家臣も華麗な衣装をまとったという。宗春は、遊郭の設置や芝居小屋の増設など風俗・娯楽の開放政策をとり、また、商工業の振興と発展に尽力するなど積極的な経済成長政策を行った。そのため名古屋は急速に大都市へと発展し、「名古屋の繁華で京(興)がさめた」といわれるほどの隆盛をほこった。だが、時の将軍・徳川吉宗は当時、質素倹約を旨とする「享保の改革」を推進しており、宗春と吉宗は対立、ついに宗春は幕府から詰問を受け、その後、宗春には蟄居謹慎が命じられた。隠居後、宗春は外出を一切禁じられたが、茶碗を焼いたり絵を描いたりと趣味に生きたという。謹慎は宗春の死後も続き、その名誉が回復されたのは死後75年も経った11代将軍・家斉の時である。墓所は愛知県名古屋市千種にある平和公園。著書に宗春の政治理念を記した『温知政要』がある。これは21カ条からなるもので、「いきすぎた倹約はかえって庶民を苦しめる」「規制を増やしても違反者を増やすのみ」など宗春の主張が掲げられている。

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