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寺坂吉右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

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寺坂吉右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

寺坂吉右衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで、300人ほどいた浅野家足軽のなか唯一討ち入りに参加し、その後生き残ったことで知られる。吉右衛門は通称で、名は信行(のぶゆき)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、8歳の時から吉田忠左衛門(赤穂浪士リーダー大石内蔵助の右腕として活躍した義士)の家に奉公にあがり、27歳の時に忠左衛門の足軽となり正式に浅野内匠頭長矩の家臣となった。真面目で誠実な性格で、主人である忠左衛門に常に従い働いた。主君・長矩が刃傷事件を起こし、同志が義盟を交わした時、吉右衛門は足軽という低い身分から参加できなかったが、のち、義盟への参加を熱望しその忠心を大石内蔵助に認められ義盟に加わった。討ち入りに際しては裏門隊に属したが、討ち入り後、亡き主君・長矩の眠る泉岳寺へ引き上げる一行のなかに吉右衛門の姿はなかった。これは大石内蔵助の命を受け、関係者に討ち入りの成功を報告する使者となったともいわれる。討ち入り直前に逃亡したのではないか、との説もあるが誤りと考えられている。その後、吉右衛門は幕府大目付・仙石伯耆守のところへ自首したが、足軽という身分を理由にお咎めはなかった。吉右衛門はかつての主・吉田忠左衛門に誠心誠意仕えたように、今度は忠左衛門の遺児・吉田兼直に忠義を尽くしたという。連座で伊豆大島へ遠島が決まった際も、遠島の際の見送り、赦免後の出迎えなどもすべて吉右衛門が行った。また、吉田忠左衛門の娘婿の伊藤家へも奉公している。さらにその後は江戸の寺で寺男をつとめ83歳まで生きた。墓所は東京都港区にある曹渓寺。

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