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赤埴源蔵(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

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赤埴源蔵(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

赤埴源蔵
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源蔵は通称で、名は重賢(しげかた)。姓名の読みは「あかはにげんぞう」とう説もある。「赤穂事件」を題材にした物語『仮名手本忠臣蔵』のなかでは「赤垣源蔵」の名で登場。なお『忠臣蔵』での源蔵といえば「徳利の別れ」と呼ばれる留守中の兄の羽織の前で酒を酌み交わし別れを告げるシーンが有名だが、実際には下戸でむしろ甘党だったといい、兄も実在しない。主君・浅野内匠頭長矩が江戸城において刃傷事件を起こした時は江戸におり、以後、江戸の急進派として討ち入りを主張し続けた。無口な人物だったといわれ、討ち入り直前、妹の嫁ぎ先へいとまごいに行った際、妹の義理の父から仇討ちをする気配のないことを罵倒されても討ち入りに向かうとは言わず、ただ「遠方へ行くのでいとまを乞いに来た」とだけ告げ、下戸ながら差し出された杯を「こんばんだけ」と受けたという。この逸話が後世脚色され「徳利の別れ」となった。討ち入りでは裏門隊に属し、引き上げの際は火事にならないよう屋敷の火の始末をした。大石内蔵助と同じ熊本藩・細川家にお預けとなり切腹。墓所は主君・長矩や赤穂浪士たちとおなじ高輪の泉岳寺。

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