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原惣右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

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原惣右衛門(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)

原惣右衛門
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。惣右衛門は通称で、名は元辰(もととき)。弟の岡島八十右衛門も四十七士のひとり。米沢藩上杉家の浪人・原定辰の子として生まれ、赤穂藩に仕官した。1701年(元禄14)に主君・浅野長矩が江戸城にて吉良義央に刃傷に及んだ際には伝奏屋敷に詰めており、その夜、主君・長矩の切腹などを伝える第二の使者として大石瀬左衛門信清とともに赤穂へ出発、5日後には家老・大石内蔵助に伝える大役を果たした。赤穂城明け渡し後は大石内蔵助の補佐として活躍、江戸に出てからは「和田元真」の変名を使い吉良邸討ち入り作戦の立案にあたった。討ち入り当日は弟の岡島八十右衛門とともに表門隊に属し奮戦、宿願を果たすと熊本藩主・細川家にお預かりとなり切腹し果てた。辞世の句は「かねてより君と母とに知らせんと人より急ぐ死出の山路」。墓所は主君・長矩や同志たちと同じく高輪の泉岳寺。息子はのちに安芸国浅野本家に仕官した。なお、惣右衛門の母は、討ち入りを決行しない息子の惣右衛門を促すため自殺した、という逸話が有名だがこれは後世の創作である。

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