横川勘平(『誠忠義士伝』より、歌川国芳 画)
横川勘平
江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘平は通称で、名は宗利(むねとし)。いつ頃かは不明だが赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕え、長矩が刃傷事件を起こした時は江戸にいたがすぐに赤穂へ戻った。はじめ殉死を唱えていたが、義盟に参加し大石内蔵助に従った。のち、同志たちの決意の固さを確かめるため大石内蔵助が行ったいわゆる「神文返し」で、勘平は江戸の同志たちへの「神文返し」の大役を任されるなど大石からの信頼もあつかった。江戸では同志の堀部安兵衛と同宿し吉良方の動向を探索、独自のルートから12月14日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を入手、これを大石内蔵助に報告した。続いて大高源五も同日に吉良邸で茶会が開かれるという情報を入手、この2つの情報から大石内蔵助は討ち入りを12月14日に決行することを決めた。討ち入りに際しては表門隊に属し、槍を使って奮戦、しかし戦闘中に負傷し、亡き主君が眠る泉岳寺へ引き上げる際には途中から駕籠を使ったといわれる(歩ける程度の軽傷だったという説も)。三河国岡崎藩の水野監物屋敷にお預けののち切腹。辞世の句は「きがかりもなくて今年の霞かな」。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。
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