大石りくの肖像画
大石りく
江戸時代前期の女性。「赤穂事件」における赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の妻として知られる。非常に大柄だったといわれ身長は6尺(約180cm)あったとも。但馬国豊岡藩京極家の家老・石束毎公の長女として、但馬国豊岡(現・兵庫県豊岡市)にて生まれた。18歳の時に播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老・大石内蔵助と結婚し、長男・松之丞(のちの大石主税良金)をはじめ2男2女をもうけた。内蔵助の主君・浅野内匠頭長矩が江戸城で刃傷事件を起こし切腹、お家断絶、赤穂城開城となると、りくは4人の子どもたちと一時、豊岡の実家へ戻った。その後、内蔵助が京の山科に居を構えるとりくも山科へ移住した。しかし、討ち入りの方針が決定すると連座に及ばぬようにとの配慮から内蔵助により離縁された。なお、このあと三男・大三郎が誕生している。赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入りし、本懐をとげると、夫の内蔵助、長男・主税は切腹した。残された4人の子どもたちを育てあげたが、長女(くう)と次男(吉千代)は早世してしまった。なお、三男・大三郎はのち安芸国広島藩の浅野本家に仕官、次女るりは広島藩士で浅野一族の家に嫁いだ。落飾後は「香林院(青林院とも)」と称し広島藩の援助を受け隠棲した。墓所は広島県広島市にある国泰寺。りくの故郷である兵庫県豊岡市では毎年10月にりくを偲んで「大石りくまつり」が開催されている。りくを主人公とした小説に平松弓枝の『花影の花』がある。
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